「いまここ」

ひどく心が乱れた日が続いていて
多忙な仕事が頭から離れなかった

ある日の夜
産科病院のサービスとして
ディナーに招待された
頑張ったお母さんに
そしてそのパートナーに
美味しい夕食を振舞ってくれるのだ

ひどく疲弊していて身体がだるい
しかし
楽しみにしている妻にそんな内情など
悟られてはならなぬと
心して席についても
隠しているものが滲み出てくる

話し続ける彼女に
相づちを打ちながら
スープには人間関係の悩みが
サラダには納期の期限が溶けている

そんな僕らの目の前に
メインディッシュが出された
彼女がローストビーフを
頬張りながら そして
微笑んで言った “おいしいね” って

“おいしいね”
過去のことや先のことなど知ったものか
お前はなんで今、この瞬間に
喜びを感じないのか

この言葉に端を発して
口の中に肉の旨味が
彼女の笑顔が
今ある幸せが
一気に広がった

心の底からそう感じた
“おいしいね”って
言葉にして、そして少し笑った