100%な朝を迎える方法

平凡な毎日の何気ない出来事を切り取っていく

「回帰」

就職して一年後の春に
田舎の親元を離れて一人暮らしを始めた

七畳のワンルームにロフト付き バストイレ別 
駅から四分 
家賃六万四千円 
以前から好きだった街で
少し贅沢な生活を始めた

ロフトの窓から見える
立ち並ぶビルに興奮し
そしてやっと
自立できた気がした

自分で稼いで自分だけで生活する 
それだけで心が震えた

ところが
配属が変わり収入が激減して
あっけなく次の更新でそこを
離れなけらばならなくなった

テレビとふとんと
ボストンバックだけの部屋で
最後の夜を明かした時の切なさ

いつかまたこの街に住みたいと願ったが
もう叶うことはないのだろうと
哀しくも感じた

原点がそこにあって
今でもそれを確認するためだけに
車で一時間かけて顔を出す

行きつけの喫茶店で出される
コーヒーは
いつもいつもホロ苦い味がする

「裏手の路地」

研修で赴いた街を
歩いていて
歩いていて、記憶が呼び戻る
この道の裏手に寮がある
彼女が住んでいた寮がある
それは幾度も幾度も通った道で

向かう前に地図で調べた時には
ああ、あそこか と
思う程度だったのに
いざ歩いてみると
脳の底の底に
すっかり沈んでいた
いろいろなものが
ありありと滲み出てくる

そんなに遠い場所でもないのにな
そりゃ
理由もなければ降り立つことも
歩くこともない場所で
時間ばかりが、ただ過ぎていった

いろいろ楽しいこともあったのに
手痛く別れた最後の瞬間だけ
やけに鮮明で
裏手の道に近づくと
じっと心が痛んでくる

あんまりいい思い出、ないなぁ

なんてしみじみと口にしながら
十数年も前のことを
ほろ苦くも懐かしんで
夕闇の中を通り過ぎていく

「夕立の空」

夏の夕立に駆け込んだ軒先で
突然に奴の事を思い出す

恋に空回りし
出世で後輩に次々と追い抜かれ
人間関係は安定性を欠いたまま
精神は悩みの中で徐々に裂けていき
不器用に日々を生きてきた彼は

初夏の連休も終わりの頃
ああ、明日も休日出勤面倒くさいなぁ…
と眠りについて
そして、次の日の朝は来なかった

二人きりで業務をしていたある日の午後
不意に苦しい顔をして苦悩を語り出したその後輩と
仕事そっちのけで長い長い話をしたこと
その時私は心に届くような言葉を残しただろうかと
後悔ばかりが頭をよぎる

捜索願いが出された三日後に
彼は車内で発見された
周りの誰もがその素行を知らなかった
ひとつひとつが明るみになって
少しづつ渦に引きずり込まれていった彼を
皆が初めて知った

最後に話したのはいつだったろう
奴のはにかんだ笑顔ばかりがやけに
目に焼き付いて離れなかった

そして、何事も無かったかのように
季節は変わって誰もが口にしなくなった
夏の終わり

「傍観者」

お前はいつもそうだ
ステージに立つ人間をステージ下で
傍観する
ああ、成長したな とか
変わったなぁ とか
よくやるよ とか
三者を気取って評論じみたことを言う

じゃあお前もどうだ と勧めると
急に苦笑いをして
あれこれ理由を探し出して
へなへな断るのが関の山
これだから出来ないんだと
こういう事でしょうがないんだと

本当は自分もそこに立ち
光を受けたいと心の底では思っている
なのに
言い訳で固めて保身に走る


そんな理由はただひとつに束ねられる
「生地がない」って

「御用のない人」

ホームで各駅停車を待っているが
隣のホームの急行電車が
なかなか発車しない

車両の中央にある
赤いランプが眩しく灯る
扉のすぐ傍に頼りなく立っている
ひどく太った親父が
立ち上がっては
またよろよろとしゃがんで
周りのサラリーマン達が
倒れないように手を預ける
酔っているだけならまだいいが
とにかく脂汗をかいて顔面蒼白だ
大丈夫ですと主張するが
抵抗むなしく
数人の駅員に促されてやむなく
電車を降ろされる
あまりに大きいので
段差でろよけて倒れそうになった駅員を
私はあわてて支えた

急行は数分の遅れを呈して
走り出した
両脇を駅員に抱えられた
その親父を残して
ゆっくりとスピードを上げていく

「ケセラセラ」

「もしかして緊張してます?」
「ええ・・かなり」
「大丈夫ですよ、なるようにしかならないんですから」

なんて素晴らしい言葉なんだろう

簡単な業務であったが
責任者として初めて
一人立ちしたときの出来事

責務に圧され
あらゆるトラブルを
シミュレーションを繰り返し
何度もあんちょこを読み
ガチガチになっている彼に
部下がそんなことを言った

だいぶ気が楽になったのは
間違いない

“なるようにしかならない”
部下は来月遠い職場に転勤になる

その強さ 尊敬にも値する

「姿なき者」

ずいぶんと失礼な言い方をする奴だ

メールで来た業者からの
依頼文を見て軽く憤る
メールの主は面識があるが
その書いてある内容は
裏にいる技術屋のそれだ
こちらが違うデータを間違えて
送ったのはたしかに非がある
だが、それに対して
「このデータはどこに紐つければいいでしょうか?」
などと皮肉たっぷりではないか
腹立たしい…
何回か読み直して
この依頼は打ち切ってやろうかと
何度も思う

ひとつの言い方
ひとつの言葉尻
姿の見えない文書ならなおさらのこと
そこは捉え方も繊細になるから
慎重にしなければならないのよ

そんな気持ちを抱えた折に
その先方と打ち合わせを
することになった
そっちからの提案案件だぜ
出方によっては言ってやろうと
意気込んで望んだ

だが会ってすぐにわかる
なるほど、そうだったのか

技術屋はそれはなかなかの
話し手ではあったのだが
端々に少なからず粗さが隠せない
外国の方だった

つくづく思う
日本語はやっぱり難しいのだと